秀吉に切腹させられたと噂が立った信雄
史記から読む徳川家康㉛
翌9月1日、秀吉は大坂城の築城工事を開始。この時、石田三成(いしだみつなり)や黒田官兵衛(くろだかんべえ)らが普請奉行に任じられている。
そんななか、11月頃から秀吉と織田信長の次男である信雄との関係悪化が明白になった。信長の一周忌法要後に、信雄は尾張国(現在の愛知県西部)、伊勢国(現在の三重県東部)、伊賀国(現在の三重県西部)の3国を領することにはなったが、秀吉から「二度と天下に足を踏み入れぬ」ようにされたという(「フロイス書簡」)。
加えて秀吉は、織田家の後継者として自身が擁立した三法師をも安土城(滋賀県近江八幡市)から近江坂本城(滋賀県大津市)に移すなど、政権運営から織田家を排除していたのは明らかで、秀吉と信雄の関係は悪化の一途を辿っていたのだった。世間では、信雄が上方で切腹させられたとの噂まで広まっていたという。
1584(天正12)年2月、家康は信雄に使者を派遣(「岩田氏覚書」)。内容は明らかでないが、密事について話し合われたという。後の信雄・家康と秀吉の敵対を考えれば、この時に両者の間で何らかの約束が交わされたものと考えられる。
同年3月7日、信雄は四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の弟である香宗我部親泰(こうそかべちかやす)に書状を送り、秀吉と断交したことを伝えている(「香宗我部家伝証文」)。この書状は元親の支援を求める内容で、その前日に信雄は、自身の三老臣である岡田重孝(おかだしげたか)、浅井長時(あざいながとき)、津川雄春(つがわたけはる)を誅殺している(「土佐国古文叢」)。どうやら、この三老臣に謀反の疑いあり、と信雄に密告した者がいたらしい(『当代記』「吉村文書」)。
同月13日、尾張清須(愛知県清須市)で家康と信雄は面会(「佐竹文書」)。家康は関東の氏直に、秀吉を討ち果たすため、信雄と申し合わせて出馬した、と報告している(「水府明徳会所蔵文書」)。
家康と信雄は、まだ秀吉に臣従していない、紀州(現在の和歌山県と三重県南部)の雑賀衆(さいかしゅう)、根来衆(ねごろしゅう)に秀吉の拠る大坂攻撃への協力を求めた(『譜牒余録』)。また、同盟関係にあった北条氏や、越中国(現在の富山県)の佐々成政にも同様の働きかけを行なっている。
同月15日、家康は堀を深めた小牧山(愛知県小牧市)に本陣を置いた(『家忠日記』『当代記』『石山本願寺日記』)。その2日後、家康の家臣である酒井忠次(さかいただつぐ)、奥平信昌(おくだいらのぶまさ)が尾張羽黒(愛知県犬山市)に陣を据えた羽柴方の森長可(もりながよし)を攻撃し、打ち破った(『当代記』『家忠日記』)。
同月28日、羽柴軍は楽田(がくでん/愛知県犬山市)に着陣。こうして両軍が対峙することとなった。羽柴軍の兵力は約10万、徳川・織田連合軍は約1万5000だったといわれている。「小牧・長久手の戦い」と呼ばれる戦いの始まりだった。
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